桜が満開になり、すっかり春となった陽気に服の選択を悩まされ、花粉症の症状にもなんだか慣れてしまい、そしてまだ体に馴染んでいないスーツ姿の男女を見かけるようになると、このブログにもちゃんと時宜にかなったことを書かなければいけないような気がしてくる。そこで今回は夢と希望とある程度の野心と不安と緊張とをもって社会人生活をスタートさせた新社会人とお酒について考えたことを。(はなむけの言葉を送るほど私は偉くも立派でもないので、あくまでも考えたことである。そもそも新社会人の読者はいないであろうけど。)
よく「今の若いやつらはお酒を飲まなくなった」という緒先輩方の声を聞く。この言説、大概は「職場の人間とのコミュニケーション軽視する若者」に対する年長者の小言といったところだが、時に若者を(小言以上の)叱責・非難する文脈で語られることがある。つまり「今の若いやつらはダメ」な理由に、なんと「お酒を飲まないこと」があげられているわけだ。普段理詰めで周りを納得させながら仕事をしている「だいの大人」が、こんなへんてこな理屈をこねているのだ。とはいえ私も含めたある年齢以上の愛飲家にとって確かにうなずいてしまう話。ここには「風が吹けば桶屋が儲かる 」式の(知らない人はググってください)論理があるに違いない。
世の中の一般的な宴席を考えてみる。同僚・上司・部下とさしつさされつ、酒を酌み交わすことによって仕事での疲労はまひ感覚により消され、消耗したエネルギーは再び充填されたように感じる。共にこの感覚を味わった仲間は、個人的な高揚感をこえて、一段階上の「組織」への帰属感を感じるのではなかろうか?最後に部長の「一本締め」なんかがあった後、宴会前と宴会後の世界が確かに変わっていることを自覚する。
ある世代以上の人にとって、本来の自分をある程度歪ませながらも組織に同化しなくてはならなかった。そうして個人の制約・限界を越えて組織に同化し、社会の発展に貢献してきた自負があるはず。個人が限界を打ち破ってきたこと、ある意味(若者にとっては)「狂気の沙汰」に到達してきたこと、それこそが社会を発展させてきたという認識を持っているのではないだろうか。「狂気」への近道として利用されてきたのがこのお酒ということにならないだろうか。
新社会人の皆様は「今の若いやつらはお酒を飲まなくなった」なんて言葉には冷笑を浴びせればいい。そして良識あるこのブログの読者の皆さんは「今の若いやつらはお酒を飲まなくなった」と言うかわりに、「今の若いやつらはおいしい日本酒を飲まなくなった」「よし、飲ませてやろう」と若者にご馳走してあげてください。