人を雇うということ

「とんかつをもっと美味しく、

安くたべることはできないか?

出発はそこからでした。」

ーあるとんかつチェーンのホームページより


 入学・入社・転勤などにともなって新たに練馬に引っ越して来る人が多い時期。それを目論んで当店では学生や主婦のアルバイトを募集しているが、一向に誰からの応募もない。昨今の人手不足(とくに飲食店での)による既存スタッフの長時間労働はニュースになるほどだが、最後の学生アルバイトのIさんが就職で辞めて以来、慢性的に人手が足りない状態。現在は私の(おっ)家内と大ベテランNちゃんが週6日の営業日を交互に担当してもらっており、どちらかが休むと代わりが一人しかいない。それゆえに、代わることができない場合などは、風邪や少々の熱があっても出勤してもらうという、ブラック企業体質のお店になってしまっている。経営者の不徳のいたすところ。


 さてなぜ人を雇うか、こんな当たり前で単純なことを今回は考えてみたい。「カウンターのみの14席」の当店では料理のほぼ全てを私が一人でやる。そしてもう一人いるスタッフは注文をとり、料理を運び、空いた皿を下げ、お会計をする。この「間接部門」たるスタッフがいてくれるおかげで、私は料理に集中することができる。「大事なこと」「自分にしかできないこと」に集中するために人を雇う、当たり前のことだ。

 

 ここで私の昔話。20代の頃あるとんかつやチェーンの店長を任されていたことがある。今ではこのチェーンの知名度は大変なものだが、20年近く前でも関東近辺を中心に100店ほどの店舗数を誇っていたと思う。店長になった経緯などは長くなるので書かないが、ここではチェーン店の店長になったことが反面教師となって現在のスタイルに役に立っているということだけを言いたい。

 

 このチェーンでの店長研修の際よく言われたことは「自分の分身を作りなさい」ということ。つまり自分の分身を作れば、店長がいなくても店は分身に任せられる。そして分身を複数作れば、もう1店もう1店と店舗を増やすことができ、あなたはそれらを統括するマネージャーに昇格できますよ、という店長の成功物語が提供される。ここで「店長」とは、「店長の分身」とは何を表しているのか?おいしいとんかつを揚げる技術を持った人のことか?否、そうではなくチェーン店が作り上げた「システム」、ビジネスモデルの体現者であるということ。こういった考えは、料理を「もの作り」と捉え、独自の料理をつくってお客様に美味しく召し上がっていただくことこそが飲食店の仕事だと思っていた当時の私にとってちょっとばかり衝撃であった。


 ただ、この「システム志向」の人間こそ夢を語り、理想を語り、その熱い想いで多くの人を動かす力を持っているのも事実。ブラックで名高い居酒屋チェーンのカリスマ経営者の著書に感動した人も多いだろう。しかし私は、夢・希望・自己実現などといった言葉のもと、「社員に成長する場を提供してあげている」かのような経営者の傲慢さをそこに感じる。そうして経営者のご恩に報いようと、過労死までの一本道を突き進むかのような社員のがむしゃらな努力で多店舗化・シェア拡大・海外進出といった具合にシステムは拡大される。

 対して、おいしい料理を食べたときの感動はずっとささやかで平和的なものだ。すくなくとも私の料理でうちのスタッフが過労死することは想像できない。

 お店にいらしてくれるお客様、私ができないことを担ってくれるスタッフ、それらの人々が幸福を感じてもらいたい。私が経営について語る言葉はそれだけだ。