報われる瞬間

先日「ブログ面白いですよ」と、あるお客様に声をかけていただいた。そのお客様はすべての投稿を読んでくださっている上に、知り合いにもシェアしてくれていると言う。


ブログをはじめて2週間、自分の考えたことを整理しながら文章化することに喜びを感じつつも、つまり自己満足を覚えながらも、いったいこの文章は読まれているのか、読む価値のあるものなのかと、ブログ作成アプリの「公開する」ボタンをクリックするたびに自問自答する始末。


家内もブログを読んでいるようだが、特に感想らしい感想を聞かない。コメントを受けとるようにもなっていない。反応がない中だと、なにかマズイことを書いているんじゃないだろうか、このブログでファンを増やすどころか逆にお客様が離れていくんじゃないかと不安にもなる。


そして2週間目にして初めてお客様から「面白い」と声をかけていただけた。このブログの筆者にとって大変励みになる言葉だったし、何よりも「報われた」と思った瞬間だった。どうしてか「報われた」という言葉が浮かんだのだ。


この「報われた」感は、「1年間の勉強の努力が報われた」とか「顧客のところへ足繁く通ったことが報われた」という「報われた」とはちょっと違う。


僕の感じた「報われた」はもっとささやかな報酬のものだ。たとえば流し台にたまった食器を気まぐれで洗って「疲れているのにありがとう」と妻に声をかけられた時の「報われた」感(そんな時代もあったなぁ)。要するにまったく報酬を期待しない行動、むしろ自分が勝手にやっているようなことに対して、かけてもらった言葉に沸き起こる「報われた」感だ。(ただこういう場面がTVCMにされると「わざとらしさ感」しかないのだが。)

そして僕はこう考える。このブログを書くことがほんの少しでも「報われる」ことがあるのならば、この世に存在する価値はあるのではないか、存在してもいいのではないかと。


しかしこういう発想こそ現代に毒されているのかもしれない。


すべてのものが報われる価値の大きさで測られる世の中。だから売れるものをつくる、シェアが拡大するようにプロモーションする、多くのお客さんを呼び込むために価格を下げる。しかしこうした考えのもと世に出された商品・サービスは、多数派のそこそこの満足をターゲットにされるもの。本当に人を満足させるものはニーズとかウォンツとかシーズといった発想から生まれないのではないだろうか?


ではどういう発想から生まれるのか。もちろんわからない。

ただ、大きく報われてはいないが、人を感動させるものがこの世には存在することは確か。売れる理由はなくとも、感動させる理由がそこにはある。


こう考えたものの、日本酒にしても料理にしてもあるいは芸術作品にしても、いままで感動してきたものが「お金のためだけ」につくられてきたと僕が思いたくないだけかもしれないな。