反省文

前回のブログの続きはまだなのかというご指摘を数人のお客様からいただいているが、実際のところなかなか続きが書けないでいる。


僕のブログの大半がそうだが、最初の一文が浮かんだら何となく方向だけ決めて、結論をイメージする前にとにかく書き出してしまう。そして偶然に任せる。ゆだねる。

かっこうよく言えば即興演奏、そうでない言い方なら行き当たりばったり。


ということで前回のブログは、即興演奏に失敗、行き当たったどん詰まりということで、現在発酵・熟成中につき忘れた頃に続きを書くと思います。


つくづく自分の計画性のなさ、慎重さのなさに反省。


この無計画性は今の世の中では非常に評判が悪い。

東京オリンピックの計画の杜撰さは日々ニュースに取り上げられているし、貧困・下流老人などの社会問題も当事者の経済的無計画さに帰する論調が後をたたない。寿命100才時代などと言われるのも、人生を計画でガチガチに固める風潮を後押ししているように思える。

この世が経済を中心に回っている以上、未来の景気の不確定性が、計算高く、賢く生きる強迫観念を僕らに植え付けるのは仕方のないことなのだろうか?


もっとも当店のような小さな飲食店でも、来店客数を予測して食材・人員を準備することや、どんぶり勘定ではない適切な原価率で価格を設定することなど、計画の重要性は言うまでもない。

だけど毎日の仕事の際考えていることは、お客様にどうやって満足してもらえるかということに尽きる。それこそ僕が仕事をしている意味であるし、喜びであるわけなのだが、そのためには計画を忠実に実行するよりも、偶然の出来事にいかに対応するかの方が重要になってくる。


開栓して数日経ったお酒がおもいのほか美味しくなっていたのでお客様に出したら喜ばれたとか、オリジナルのメニューがひらめいたとか、想定していたお客様が来てくれたとか、たまたま燗酒好きな人が店の前を通りかかって入ってきてくれたとか。そもそも飲食店の日常が偶然性に支配されている「水物」なので、経営者の中にはいわゆる「験を担ぐ」人も多い。(オーナー自らトイレ掃除をするというのも一時期流行ったようだ。僕は今も実践している。誰もやってくれないだけだが・・・)


僕が客として他店に行く時で言えば、たまたま入った店が期待に反して刺激になったとか、聞いたこともないメニューを頼んでみたら美味しかったというのもささやかな喜びだ。失敗したくないからと口コミサイトを頼ったり、保守的なメニューばかりを注文していては決して得られない種類の満足感。


考えてみれば人生の喜びの源泉はこの偶然性にこそあるのではなかろうか。

人との偶然の出会い、そうやって出会った人と結ばれて生まれてきた子供も偶然の産物。思い通りにならない子供にイライラするものの、思わぬ成長に喜びを感じることもある。結婚や子供なんていうのは、ある種の人には無駄で非効率などと言われそうなことだが、人は人生のある部分を偶然にゆだねることで喜びを得られると言うことを皆無意識に知っているのではないか。


各種ノウハウに精通して失敗しないようにする、情報を精査して最適解を導き出す、統計学を駆使して成功する行動パターンを選択する・・・こうした「賢い生き方」はネットを駆使すればいくらでも検索可能だと思うが、それで皆が幸せを手にしているかと言えばそうでもないだろう。

人は偶然に幸せになったり、偶然に成功者になったり、偶然に不幸のどん底に落とされる。占いに人生を決めてもらう人がいれば、宝くじに大枚をはたく人がいる。


僕らができるのはせいぜい努力することぐらい。それも前のめりにじゃなく「買わなきゃ当たらないよな」くらいの気持ちでちょうどいいんじゃないか?


以上、前回のブログの続きが書けないことについての反省文。