「1年」という時間

先日小学6年生の息子の学校でマーチングバンドの演奏会があった。

演奏するのは6年の生徒全員が参加するマーチングバンドで、5年生の終わり頃から10月の運動会直前までの長い時間をかけて練習してきたのだから運動会での発表1回限りではもったいないという配慮から催された演奏会であり、保護者にとっては再び演奏を聞く良い機会となった。

運動会の時とは違って生徒たちはリラックスムード、思いきった演奏ができたようだ。演奏内容も、その演奏を楽しんでいる子供たちの姿も保護者にとって大変感動的なものであった。

加えて会の終わりに挨拶する担任教師の、感極まって泣き出してしまい挨拶にならない挨拶をする女性教師のその姿に、もらい泣きを誘う感動もあった。

数ヵ月後に控える卒業式のことを思い浮かべてしまったのだと言う。立派に成長した彼ら彼女らとお別れしなければならないという事実に感極まってしまったと。


確かに教師という職業ほど「1年」という時間の意味を意識させられる職業はあまりないかもしれない。

「1年」の中の、その一日一日が大事だという話ではない。それはビジネスや試験勉強など、目的に隷属する時間の感覚だ。

そうではなく教師の時間の感覚は、はじまってしまえば1年後には必ず終わり(別れ)が来る、自分ではコントロールできない運命に隷属する感覚ではなかろうか。

来る年来る年やって来る「出会いと別れ」という運命に従う「教師」という職業に、私は人知れず3つめの感動をしていた。


この「1年」の感覚は、お酒造りにおける1年の感覚と性質を同じくしてはいないだろうか。「杜氏」という職業にも共通するものがないか。

 

酒造りは言うまでもなく米づくりからはじまる。

春夏を経て秋に収穫されたそのお米で酒を造る。米が良くないからといって米づくりからやり直すことはできない。その年に出来たそのお米で酒を造らなければならない。お米の出来は自然に左右される。人為的なものでない要素に大いに左右される。

酒造りもまた米づくりと同様やり直しがきかない。自然を利用しながらも自然に多くの不確定な影響を受ける。完成形・理想形から逆算して造っていながらも、その逆算にどれだけの意味があるのかと思っている節さえ杜氏にはあるのではないだろうか。


今月から全国の酒蔵が今期の酒造りに向けての準備を始めている。不老泉の横坂杜氏も、当店に来てくれた直後より蔵入りし、蔵内の徹底的な掃除に勤しんでいるようだ。


時間の感覚・哲学の違いで、人はそれぞれ違う有り様で人生をとらえる。

例えば横坂杜氏が70才まで杜氏をするとなると、あと12回ほど酒造りをすることになる。12回も酒を造らなければならないと思うのか、12回しか酒を造れないと思うのか。横坂杜氏にとっては、きっと後者だと思うし、少なくとも僕ら今の不老泉ファンにとっては間違いなく後者だ。そもそも横坂杜氏ならば70を越えても酒も米もつくっているかもしれないわけだし、僕らもそれを望んでいる。


そうは言ってもそんな人生が、定年する日までを指折り数える人たちの人生より良い生き方なのかどうか、それは簡単に結論を出せる問題ではないことは言うまでもない。