ママさんバレー社会学

先日妻が参加するママさんバレーの試合の観戦に行ってきた。


ママさんバレー、正式には「PTAバレーボール」。すなわち「親と教師の協議組織によるバレーボールチーム」なのだが、メンバーの中心はその小学校に通う子の母親たちであり、外国人助っ人枠よろしく、教師の参加は9人中2名までと決められている。

ということで、小学生の子をもつ母親、つまり「ママさん」によるバレーボールなので「ママさんバレー」と呼ばれているわけだ。


出産を経て、育児のストレスを抱え、決して若くない年齢に達しつつあるがために、体型や体力的には衰えが見られるママさんたちではあるが(大変失礼!)、日頃の練習を通じた各チームの結束力にはとても感心させられた。必死にボールを繋ごうとするママさんたちのラリーは迫力満点で、ハラハラさせられる互角の勝負や目を見張るアタックやレシーブがあったりと、9人制のバレーボールながらスポーツを観戦する面白さを、全くの予想に反して、十二分に味わえた。


しかし、なぜ「予想に反して」だったのか。


その場が「ママさん」という母性たっぷりの言い回しから想像することなど到底できない、女性たちの活躍の場であったからだ。

子供を育て家庭を守る、そうした母性を体現した「ママさん」の残像はそこには全くない。「ママさんバレー」の試合会場で見留められたのは、むしろそういった母性から解放されて活躍する女性の姿であった。だから「予想に反して」であったのだ。


予想を覆されて私に残ったのは疑問であった。

この中年女性の(妙齢の女性もいらっしゃいます)バレーボール活動がなぜ「ママさんバレー」(古くは「家庭婦人バレーボール」)と呼ばれなくてはならなかったのか。


女性が母親という周りから期待される役割から解放されてバレーボールに打ち興じるには、「ママさん」という建て前が必要だったということにはならないだろうか。あくまでも子供たちのためのPTA活動の一環ですよという建て前こそが「ママさん」という言葉の真相なのではなかろうか。


母親に母性を期待し、それ以外の活動を逸脱だと見なすのは男性の視線であり、ひいては日本社会の視線である。

(母性に関係ないフィールドで)活躍しようとする女性たちを絡め取ろうとする日本社会の網の目を巧妙にかいくぐってきた女性たちの歴史を、この「ママさん」というそのひとことが表していると言えないだろうか・・・


大会は見事、妻の参加する仲町小チームが優勝。

皆さんおめでとうございます。


今大会に出るお母さん方のほとんどは子供たちをご主人に預けてきたようで、試合会場に来ている子供はわずかだし、その子供たちもゲームをしたり子供同士で遊んでたりで、試合を見るというよりは親につまらないところに連れてこられてただ時間を潰しているといった様子。ちなみに男性のギャラリーも数えるばかり。

そんななかで、閉会式でのPTA会長(男性)の挨拶はまさに皮肉たっぷりであった。「お母さんたちの一生懸命な姿は子供たちに頑張ることの大切さをきっと伝えたと思います。」

母親の活動は何でも「子供のため」にしなければ気がすまないような人間じゃなきゃPTA会長なんてできないんだろうけど。