店が休みの日曜日の夕方、我が家では私と息子だけの将棋大会が開かれる。
初心者の私は『将棋の手筋入門』とか『3手詰め問題集』といった本を仕事の休憩時間に読んで学習した成果を、息子は近所にある児童館でそこの職員の方と対局して学んだ成果を日曜日にお互いが出し合うわけだ。
将棋が強くなるために覚えなければならないことの膨大さに途方に暮れながらも(これは将棋関連の本が夥しい数出版されていることからもわかる)、本に書かれている定石や手筋(局面を有利に進めるための一手のこと)のロジックにいちいち感心し、楽しく学習している。
将棋大会の成績を言うと息子が圧倒的に勝ち越している。学校の成績は全般的に芳しくないのだが、算数だけはよい成績の息子にとっては抽象度の高い将棋のようなゲームが合っているのかもしれない。
対して私は具体的思考の人間。将棋を勉強しながらも、いつのまにか将棋を現実世界に重ね合わせてしまう悪い癖が・・・
将棋では序盤から終局までスキの無い指し手が求められる。いい手(好手)を見つけることも必要だが、悪い手(悪手)を指さない事も大切だ。自分の悪手に対して相手は間髪入れずにその手を咎める(これも将棋用語)、つまりスキを見つけてツッコミを入れるわけだ(息子に「咎め」られてたじたじである父親の、その情けない姿を想像しないでほしい)。
我々は社会人として与えられた仕事に従事する際、ツッコミが入るスキを見せないよう常にある程度の緊張感を保っているものであろう。周りには「スキあらばツッコミを」と狙う顧客・上司・同僚部下たちがうようよしているのだから。その周囲に対して我々は、ツッコミを入れられるどころか、逆に感心させたりぎゃふんと言わせたりする「好手」たる良い仕事が出来るよう努力する。つまりどんな分野でもプロとしていい仕事をしようとするならば、将棋の「対局中」ばりのスキのなさが求められると言えるのではないだろうか。
いや、仕事中だけではない。自転車に乗っていても「どこ走ってんだ!」と言われないよう肩身がせまく心細い思いをしながらも車道の左側を通行しなければならない。スーパーのレジに並ぶときも妻に「あっちの方が早かったじゃん!」とつっこまれないよう、どのレジに並ぶか慎重に選ばなければならない。誰が見ているか分からないから立ちションも・・・
この不寛容な社会に生きること、それは常に「対局中」の姿勢を強いられるということなのだ。
その「対局中」の姿勢を解除する場を提供する役割を担ってきたのが居酒屋であろう。あまり清潔でなくとも、黒焦げの焼き鳥が出てきたとしても、ぞんざいな言葉遣いの店員がいたとしても、大衆居酒屋に人々が集うというのはツッコミを忘れて酒を飲める快楽がその場にあるからなのかもしれない。
もちろん当店にもツッコミを入れられるような要素がたくさん存在する(たとえばトイレ・・・)。
それでもお客様があたたかい目で見てくれるのだとしたら、「食事をする店」と言うよりは「お酒を楽しむ店」だと思ってくださっているからだろう。
ちなみに、居酒屋の酔客のなかには目に余るほどスキだらけの人たちがいるわけだが、その一方で羽生さんをはじめとしてプロ棋士の多くは将棋を離れてもスキのない紳士である(昔の棋士はそうでもなかったらしいが)。