俳句のように

昨年末、俳句雑誌を発行している会社でお仕事をされているお客様から、その会社が毎年作っているという「俳句カレンダー」をいただいた。

月ごとにプロからアマチュアまでの俳人がつくった俳句が20ほどのせられており、それぞれの句はその月の季節にちなんだものとなっている。

そのカレンダーを眺めていて考えたこと。


俳句のルールと言えば、5・7・5の十七音から成ることと、必ず季語が入ることは言わずもがななわけだが、もうひとつ大事なルールに「切れ」というものがある。

例えば芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」でいうと、「古池や」の「や」が切れで、そこで一瞬時間を止めることによって、その句の世界観を想起させる間をとったり、さらに続く言葉を想像させたりする効果がある。


たった十七音の俳句が、その文字数の限界を越えて芸術形式にまで発展した歴史には、偉大な俳人たちの巧みな「切れ」捌きがあった。川柳やツィッターなどの即物的な文章と比べてみればわかる。いい俳句には最初の5文字を詠んだだけで、その句の世界に足を踏み入れてしまって後戻りできないような感覚になる。勘違いしてはならないのは、「切れ」は断絶やリセットではないということ。「さぁ、切り替えて行こう!」と声を掛け合うハーフタイムではないということ。


日本酒の味わいを表現するときにも「切れ」という言葉は使われるが(どちらかというと「キレ」であるが)、どちらかと言えばリセットする意味合いであって、なかには切れのあるお酒こそいいお酒だと思っている人もいる。日本酒のよさがリセットだとしたら、ただの水や炭酸水とどう違うのだろうか。


とくに燗酒を飲むとき、からだが暖まる感覚や舌に残る余韻を感じたり、温度が下がってきたときの味を高い温度であった時の味わいの記憶と比べたり、一緒に合わせる食への想像を掻き立てたりと、酒と食の「間」に多くの楽しみが自然と流れ込む。

まさに俳句の「切れ」とおなじだ。


「切れ」が利いているかどうか、俳句を鑑賞するように飲食店での食事を味わってみてもいいかもしれない。