料理の「見方」(2)

前回の続きを書こうとパソコンを開いたリビングでは、ちょうどグルメ番組がテレビに映っている。

「各界の美食家が選ぶ○○○」「トロトロチーズ」「中毒性がやばい」「嗚呼!その手があったか!」「こだわりのオリーブオイル」「イタリア産ペコリーノロマーノ(?)」といったグルメ番組を装飾するおなじみの言葉を見せられたり聞かされたり。

「あぁ、またか」と思う。

たとえ本当に新しい料理を紹介していたとしても、結局は使い古された言葉を恃みとしているために、「あぁ、またか」と思う。 

「あぁ、またか」と思いながらも、消費者の欲望を刺激するありきたりな言葉は、料理人を翻弄し、支配し、挙句の果てに出来上がるのは、インスタ映えがして、贅沢で豪華で(あるいは驚くほどシンプルで)、こだわりが感じられ、文化的で(例えば日本的で)、地球にやさしくて持続可能で……といった感じの新奇な料理と、疲労しきった料理人だ。

 

では例の番組の場合。

そう、上記のようなありがちなグルメ番組ではない。かと言って料理のボリュームと安さをとっかかりとした素人としての店主のキャラ立ちに躍起となっている番組でもない。

番組で偶然スポットを当てなければ決して表に出てこなかった、それぞれの店主が内に持っている大切な物語こそが主役の番組だ。

その物語がもたらす世界観をもとに、店主はお客さんに喜んでもらえる店を作る。物語が店づくりを助け、自信と誇りという支柱となり、店は店主その人を物語るようになる。まさにドキュメンタリーだけが伝えられる中身を持った番組だろう。

 

料理人の自己が十分表現されている料理を味わうことこそ、食べること(外食すること)の醍醐味だと思うが、それは決して高級店だけで体験することではないことをこの番組は伝えている。「市井の料理人」とでもいうべき、この番組に出てくる人たちが作る「大盛り」で「安い」料理にも、その醍醐味を味わえることが伝わってくる。

 

 

我々は人が作る料理に気軽に優劣をつけて楽しんでいるが、それはもしかしたら人間に優劣をつけるのと同じくらい悪趣味な行為なのかもしれない。