時間があるものだから長く楽しめるんじゃないかと思い分厚い本を買って読んで考えたこと。
訳者が解説で百科全書的と評するピンチョンの『ブリーディングエッジ』の登場人物は非常に多彩である。あらゆる職業、文化、人種、年齢、性別(これは2種類しかないが)の個性的なキャラの持ち主たち。ただし中流以上の階級と並以上の能力の持ち主のみが参加を許される社会で物語は展開される。
そうした社会こそがドラマにも映画にも小説にもなる現代のアメリカそのものであるからそれで構わない(韓国ドラマなんか貧乏人と金持ちしか出てこない)。ピンチョンは全ての物事を見て全ての人間を理解しようと努める。同時代の歴史の全体像を小説でもって築こうという不可能ですらある野心的試み。水平にも垂直にも行き渡らせたピンチョンの努力によって、この物語は最高度の政治小説として結実している。
一方で現実の、日本の政治を見る。そこには想像力を欠いた政治家の姿が毎日のように映し出される。「アベノマスク」から始まり・・・などといちいち挙げるまでもないが、政治とは自分と異なる人々を理解することを拒む決意のもと、その都度為される決断の連続であると痛感させられる。対してピンチョンやその他の小説、映画、演劇などは自分と異なる人々を理解しようとする動機のもと創作される。
他者に思いを馳せることは政治的ではない、この場合の他者はマイノリティーであり弱者であり声を上げられない人々である。この理屈を逆にしよう。他者への想像を欠き、他者の視点で考えず、自分が与する立場でものを考えることは政治的である。
自粛要請が政治的なら、緊急事態を無視する振る舞いもまた政治的である。
正しい正しくないの問題ではない。政治的か政治的でないかという話だ。効率的だとか生産的だとか電通的だとかいう言葉も当てはまるかも知れない。
個人の振る舞いは政治的なものと芸術的なものの狭間で揺れ動く。このコロナ禍で多くの人々は内面的にも外面的にも大きく揺さぶられた。この不安定で矛盾した状態は人々を極端へと趨らせるかも知れない。この矛盾を包括することこそ我々のような小規模な飲食店のあり方かも知れない。